怒りは何も他人にたいしてばかり向くものではありません。怒りは時に自分にも向けられます。
そしてその怒りが不眠を招くこともあるのです。
自分に対する怒りが不眠症を招く
自分に対する怒りはまず第一にイライラとなってあらわれます。
第二が怯えであり、増大する従順です。そして第三が身体の不調です。
不眠症もこの身体の不調の一つです。
歳をとると眠れないということが良く言われます。これなどは加齢によるホルモンの関係で仕方のないことでしょうが、若い頃に「よく眠れない」などというのはやはり自分に対する怒りが、その大きな原因の一つでしょう。
「現実の自分」に対する怒り
眠ろうとしてもどうしても眠れないことがよくあります。
眠れないときには一応「自分は今何を怒っているのだろう?」と考えてみることです。「自分に対する怒りは何だろう?」と考えます。
そして今までに処理すべきであるのに、処理しなければならなかった自分に対する怒りに気づくことです。
理想の自分と現実の自分
自分に対する怒りとは、当然「理想の自分」と比べた「現実の自分」に対する怒りです。なぜそこまで「理想の自分」に執着するのでしょうか?
「なぜそうなってしまったのでしょうか?」等々を正直に考えることです。
そこに自分の人生に対する過大な要求があるかもしれない、何か非現実的なほど高い期待を自
分にかけているのかもしれません。
そしてなぜそこまで自分に非現実的なほど高い期待をかけるのでしょうか?
それは小さい頃傷ついた悔しさから復讐的勝利を求めているからかもしれません。
成功を求めること自体は何も悪いことではありません。問題はその動機です。大きな期待を自分にかけるのは良いことでしょう。大志は決して悪いことではありません。生きるエネルギ—です。
不眠症になる怒り
悪いのは、その動機です。
復讐的勝利を目指すから、眠れない夜を迎えるのです。復讐的勝利を隠した大志だから、それが不眠症となって現れます。
大志を持った人が皆不眠症になるわけではありません。名声追求が強迫的になり、様々な心理的障害を起こすのは、その名声追求が本人にとっては復讐的勝利を目指したものだからです。
憎しみを動機とした名声追求でなければ、名声追求が「もっと、もっと」にはなりません。どこまで行っても満足しません。どこまで行っても「もっと、もっと」となるのは、その動機が憎しみだからです。
大臣が不眠症で睡眠薬を飲み過ぎて死ぬという例もあります。歴史を見れば皇帝がアルコール依存症になることもあります。これは社会的に大成功したけれども、人生の問題を解決できていなかったということです。
おそらく情緒的未成熟の大臣なのでしょう。社会的成功では人生の問題は解決できません。
憎しみが動機ではなく名声を追求している場合には「もっと、もっと」にはなりません。名声追求が強迫的になった場合には、自分はもの凄い怒りが心の中にあると思わなければなりません。
どうしても「もっと、もっと」となってしまう場合には、それだけ自分の心の怒りが激しいということであり、またそれだけ小さい頃からの人間環境が異常であったということです。
もしありのままの自分が受け入れられる人間環境で成長していれば、どの様な自分であっても「現実の自分」に対する怒りは凄くはないし、自分の心に激しい憎しみはありません。
自分の心の怒りを意識することなく、そのまま名声追求をすれば、最後はノイローゼになってしまうでしょう。それが間違った方向の努力なのです。