ジョージ・L・ウォルトンという人の『なぜ悩むのか?』(WHY WORRY?)という本があります。
その本に「不眠症」という章があります。
そこに「不眠をなおすのにじかに効果が上がるいちばんよい方法は、『眠れる』と信じること、そして、眠れなくても気にしないことです」とあります。
眠れると信じる
おそらく眠れないことで悩んでいる人でこのことに反対する人はいないでしょう。眠れない人は、眠れなくて苦しんでいる時に「気にすまい」と必死になって思おうとしています。でも気になって仕方ありません。
問題は、「眠れる」と信じろと言われても信じることができないことです。眠れない人は「眠れる」という自信を持てないから悩んでいるのです。
従って眠れない人が悩んで、色々な不眠症の本を読んでも「その通りです」と思うのだが、それでは「どうすればよいのですか?」ということになります。
つまり「その通り」と思うが、そのように自分の気持ちが動きません。
強迫性で苦しむ
いわゆる強迫性で苦しんでいるのです。強迫性とはそうしまいと思ってもそうしてしまうことです。
この本では「何故、眠れると信じることができないのでしょうか?」という点の方に焦点を当てられています。
ウォルトンの本ではさらに
「何年もの間、一晩にニ、三時間しか眠らず、それで別にそれほど健康を害したり、苦痛を感じることもなく暮らしている人は大勢います。そう考えたら、眠れないことなど気にならなくなるでしょう」
とあります。
しかし「気にならなくなるでしよう」というどころか、実は眠れない人は、そう考えても、自分が眠れないことがもの凄く気になります。
三時間しか眠らず、「それでも健康」という人がいることは百も承知しています。でも自分は眠れないことで悩んでいます。
「途中で目が覚めたりせずに朝までぐっすり眠れれば、それに越したことはないのですが、眠れなければ長生きできないとか、満足に働けないというわけではありません」と書いています。
ところが眠れなければ、体がきつくて「満足に働けない」と心配なのです。
信じることができないから辛い
心配しないでよいと分かっても心配なのです。そして事実、眠れぬ夜の翌日は体がきつくて満足に働けません。
眠れぬ夜の翌日でも、苦痛を感じることもなく暮らしている人は大勢いると分かっても、眠れないことが恐ろしいし、眠れない翌日の仕事はきつい。
苦痛を感じることもなく暮らしている人は、それほど人からの評価を気にしていないのに、苦痛を感じる人は、人からの評価を気にしています。
その両者の違いは何でしょうか?
もう少し基本的に言えば、基本的不安感がある人と基本的不安感がない人との違いです。
もっと言えば、悩んでいる人の性格と悩んでいない人の性格の違いです。悩んでいない人は信じることができます。
騙されたと思って信じる
さらにウォルトンの本には、
「ベッドに入るまえの散歩、入浴、軽い体操はなかなか効果的です。でも、いらいらしながら、本当に不眠に効くんだろうかと疑いながら、あるいは、何をやってもどうせ眠れないんだと思いながらやっても、効果はあまり上がらないでしょう」
と述べられていますが、そもそも眠れない人は元もと、信じる力がありません。
何事によらず「そんなことをしても本当に不眠に効くのだろうか」と信じることができず、疑う人たちです。薬が効くと分かっても「副作用は?」と気にして飲まない人です。
無意識の安心感がある人にはなかなか想像できないが、良いことを聞いても、読んでも信じることができません。実行出来ません。
そもそも眠れない人が、眠れないと訴えている言葉の意味は、「私は不安です、助けて下さい」という意味です。
だから安心感のない人がしなければならないのは、「騙されたと思って信じる」ことであります。
そしてウォルトンは有効な忠告として
「夕方の散歩は、不眠症を解決するのに役に立つということを言うのには根拠があります」
と言っています。
不眠症を恐れる人は昼間体を動かすことです。適度な運動が大切なことは色々な不眠症の本にも書かれています。
ただ、今述べた様に眠れない人の問題は、そう言われてもそれが信じることができないことです。そもそもフロイトの時代から、つまりフロイトとその仲間達は眠れない人というのは神経症者であると説明しています。
ではどうするのでしょうか。
眠りについての本を繰り返し読んでみる
それが信じられないときには、何度も繰り返し、繰り返し同じことを読んでみることです。そうすると何となくそうした気持ちになってくることもあります。
例えばウォルトンの本だけではなく、日本の不眠症の本にも同じ様に「適度な運動、すなわち、散歩、ゴルフのクラブをふる、緊張していると思われる筋肉をときほぐす体操をする等が必要です」と書かれています。
英語の本にも同じ様なことが書いています。
こういった色々な本に、同じ様な内容のことがこれでもかこれでもかと書かれています。その種類のことで、自分が実行出来そうなことを繰り返し、繰り返し読んでみます。それこそ読書百遍です。
同じ様なことを違った本で繰り返し読んでいると、いつの間にか何となくそう思われてくるときが来ます。不思議と信じるようになるのです。
そうすると、この場合で言えば、昼間軽い運動をしたときには夜になって何となく「今日は、眠れるかな」と信じられる日が来るはずです。